第1章 俺の幼馴染がこんなに可愛いわけがない
朝の日差しが、薄いカーテン越しに部屋を照らしている。
目覚まし時計が鳴る5分前。いつものように、玄関のチャイムが鳴った。
「悠真ー! 起きてるー?」
ドアの向こうから聞こえる声に、俺は布団の中でため息をつく。白河美月。小学2年生から続く腐れ縁にして、俺の天敵。いや、天敵は言い過ぎか。単なる幼馴染だ。
「……起きてる」
「嘘でしょ。声が布団の中からしてるし」
なんで分かるんだよ。さすが10年選手は伊達じゃない。
仕方なく布団から這い出て、パジャマのままドアを開ける。そこには、いつも通りの制服姿の美月が立っていた。
「おはよう、悠真」
「……おはよう」
朝の光を浴びた美月の姿に、俺は一瞬言葉を失う。
セーラー服、ふわりと揺れる栗色の髪、少し眠そうな茶色い瞳——
待て待て待て。
これ完全にオープニングムービーのワンシーンじゃないか。朝日、美少女、制服。三種の神器が揃ってる。BGMが流れ出しそうな構図だ。
「何ニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」
「え? いや、別に……」
「まさかまた変なこと考えてた?」
美月の鋭いツッコミに、俺は慌てて首を振る。
「考えてない! 全然考えてない!」
「『全然』って言う時点で怪しいんだけど」
ぐぬぬ。さすが幼馴染属性持ち。主人公の思考を読む特殊スキルでも持ってるのか。
「ほら、早く着替えて。遅刻するよ」
美月はそう言いながら、慣れた様子でリビングへと向かう。この光景も、もう何年続いているだろうか。
「分かった分かった」
俺は自室に戻り、制服に着替え始める。
思えば、美月との関係はゲームで言うところの「幼馴染ルート確定済み」みたいなものだ。既に好感度MAXで、あとは告白イベントを待つだけ——なんて、そんな都合のいい話があるわけない。
現実はゲームじゃない。選択肢も見えないし、フラグが立ったかどうかも分からない。
「悠真ー、牛乳切れてるよー」
「冷蔵庫の奥にあるはず!」
でも、こんな日常も悪くない。
着替えを終えてリビングに行くと、美月がトーストを焼いていた。
「朝ごはん、作っといたから」
「サンキュー」
この光景、完全に新婚生活じゃないか。いや、違う。これは単なる幼馴染の世話焼きスキル発動だ。深い意味はない。たぶん。
「そういえば昨日、新作ゲーム買ったんだろ?」
トーストを齧りながら、美月が聞いてくる。
「え? なんで知ってるの?」
「SNSで『新作ゲット!』って呟いてたじゃん」
「あー……」
そういえば興奮して投稿してた。我ながら隙が多い。
「で、どんなゲーム?」
「えーと、その……」
言いづらい。めちゃくちゃ言いづらい。
だって、昨日買ったのは『妹系ヒロインと過ごす甘々学園生活』という、タイトルからして地雷臭がプンプンする美少女ゲームなのだ。
「……また変なゲームでしょ」
美月の目が、ジト目になる。
「変じゃない! これは純愛ゲームだ!」
「へー、純愛ねー」
明らかに信じてない顔だ。
「本当だって! シナリオが評価されてて——」
「はいはい、分かった分かった」
美月は呆れたようにため息をつく。
「でも悠真、現実の女の子はゲームみたいに都合よくないからね?」
「分かってるよ、そんなこと」
「本当に?」
美月が顔を近づけてくる。近い。近すぎる。
朝の光に照らされた美月の顔は、どんなゲームのCGよりも——
「ちょっと、顔赤いよ?」
「な、なんでもない!」
俺は慌てて顔を背ける。
美月は不思議そうな顔をしていたが、やがて時計を見て立ち上がった。
「そろそろ行こっか」
「あ、ああ」
玄関で靴を履きながら、俺は思う。
ゲームなら、ここで好感度が上がる演出が入るところだ。画面にハートマークが表示されて、『美月の好感度が上がりました!』みたいな。
でも現実にはそんなものはない。
美月が俺をどう思っているのか、それは永遠の謎だ。
「何ボーッとしてるの?」
「いや、なんでも」
「もう、しっかりしてよね」
そう言いながらも、美月は優しく微笑む。
その笑顔を見て、俺は確信する。
俺の幼馴染が、こんなに可愛いわけがない。
いや、可愛いんだけど。
認めたくないだけで。
「ねえ悠真」
通学路を歩きながら、美月が話しかけてくる。
「ん?」
「最近さ、なんか変じゃない?」
「変って?」
「うーん、なんて言うか……私のこと、見る目が変わったっていうか」
ギクリ。
バレてる? まさか、俺が美月を意識し始めてることがバレてる?
「き、気のせいだろ」
「そうかな……」
美月は首を傾げる。
その仕草が妙に可愛く見えて、俺は慌てて視線を逸らした。
ゲームなら、ここで選択肢が出るところだ。
【選択肢】 1. 実は最近、お前のことを…… 2. 別に何も変わってないよ 3. それより今日の小テスト勉強した?
でも現実には選択肢なんて表示されない。
自分で言葉を選ばなきゃいけない。
「……それより、今日の小テスト勉強した?」
我ながら最悪の選択だ。
「あー、話題そらした」
美月が頬を膨らませる。
「そらしてない」
「そらしてる」
「そらしてない」
「そらしてる!」
こんな不毛なやり取りを続けながら、俺たちは学校への道を歩いていく。
でも、これでいい。
これが俺たちの日常で、俺たちの関係で。
少なくとも、今は。
教室に着くと、いつものように美月は友達の輪の中に入っていく。クラスの人気者である美月と、オタク気質の俺とでは、学校での立ち位置がまるで違う。
これもゲームなら「スクールカースト」というパラメータで表現されるところだろう。
美月:人気度★★★★★ 俺:人気度★☆☆☆☆
みたいな。
「おはよう、神崎くん」
席に着こうとしたところで、隣の席の女子に声をかけられた。
「あ、おはよう」
彼女の名前は……えーと……確か、委員長。いや、それは役職だ。名前は……
ヤバい。ゲームなら名前欄が表示されるのに。
「今日の小テスト、自信ある?」
「まあ、ぼちぼちかな」
当たり障りのない返事をしながら、俺は美月の方をチラリと見る。
美月は友達と楽しそうに話している。
その姿を見て、俺は小さくため息をつく。
やっぱり俺には、美月は高嶺の花すぎる。
ゲームみたいに「幼馴染補正」で簡単に攻略できる相手じゃない。
そんなことを考えていると——
「神崎くん?」
「え? あ、ごめん。ボーッとしてた」
「もう、しっかりしてよね」
委員長が苦笑する。
その言葉が、さっきの美月の言葉と重なって。
俺はまた、美月の方を見てしまう。
ちょうど美月もこちらを見ていて、目が合った。
美月は少し驚いたような顔をしたあと、小さく手を振ってくる。
俺も反射的に手を振り返す。
すると美月は、なぜかニヤリと笑った。
やばい。なんか企んでる顔だ。
案の定、休み時間になると美月が俺の席にやってきた。
「ねえ悠真、さっき委員長と何話してたの?」
「別に、小テストの話」
「ふーん」
美月は疑わしそうな目で俺を見る。
「なんだよ」
「別にー。ただ、悠真にも春が来たのかなって」
「は?」
「委員長、可愛いもんね」
「いや、そういうんじゃ——」
「照れなくていいよ。応援するから」
「だから違うって!」
必死に否定する俺を見て、美月はケラケラと笑う。
くそ、からかわれてる。
「本当に違うんだって。俺が好きなのは——」
危ない。
危うく口を滑らせるところだった。
「好きなのは?」
美月が興味深そうに顔を近づけてくる。
「……ゲーム」
「またそれかー」
美月が呆れたように肩を落とす。
でも、どこか安心したような表情にも見えた。
気のせいか?
チャイムが鳴り、授業が始まる。
数学の授業を聞きながら、俺は考える。
このままでいいのか。
この関係のままで。
でも、一歩踏み出す勇気もなくて。
ゲームなら攻略サイトを見れば正解が分かるのに。
現実の恋愛に、攻略法なんてない。
そんな当たり前のことに、今更気づいた17歳の春だった。