第4章 選択肢が出ない人生
日曜日、朝10時。
ピンポーン。
時間ぴったりにチャイムが鳴った。
「はーい」
ドアを開けると、私服姿の美月が立っていた。
白いブラウスに薄いピンクのカーディガン、デニムのスカート。
清楚で可愛い、まさに理想的な休日デート服——
って、これデートじゃない。宿題やりに来ただけだ。
「おはよう、悠真」
「お、おはよう」
「どうしたの? 顔赤いよ?」
「な、なんでもない。とりあえず上がって」
美月を部屋に案内する。
昨日頑張って片付けた甲斐があった。いつもより断然マシな状態だ。
「わー、悠真の部屋、久しぶり」
美月がキョロキョロと部屋を見回す。
「そうだっけ?」
「うん、前に来たのは……去年の夏休み?」
「あー、宿題やりに来た時か」
「そうそう。あの時も結局、悠真はゲームばっかりやってた」
「そ、そんなことない」
「やってた」
断言された。
美月は勉強道具を机に広げながら言う。
「今日こそは、ちゃんと宿題やるよね?」
「もちろん」
「本当?」
「本当だって」
疑いの眼差しを向けてくる美月。
まあ、去年の前科があるから仕方ない。
「じゃあ、始めよっか」
こうして、日曜日の勉強会が始まった。
最初の30分は、真面目に宿題に取り組んでいた。
数学の問題を解き、英語の和訳をし、古文の現代語訳を——
「ねえ悠真」
「ん?」
「この英文、どう訳す?」
美月が教科書を見せてくる。
近い。
隣に座っているから当然なんだけど、肩が触れそうな距離だ。
シャンプーの良い香りがふわりと漂ってくる。
「えーと、これは……」
集中できない。
美月の存在が気になって、英文どころじゃない。
ゲームなら、ここで選択肢が出るはずだ。
【選択肢】 1. 真面目に英文を教える 2. さりげなく距離を取る 3. むしろもっと近づく
でも現実には選択肢なんて表示されない。
自分で選ばなきゃいけない。
「『もし私があなたなら、彼女に本当の気持ちを伝えるだろう』かな」
「へー、なんかロマンチック」
美月が興味深そうに英文を見つめる。
「でも、本当の気持ちを伝えるって、難しいよね」
「そうかな」
「だって、相手がどう思うか分からないし」
「それは、まあ……」
なんだこの会話。
まるで俺たちのことを言ってるみたいじゃないか。
「悠真は、好きな人いる?」
突然の爆弾発言。
「は!?」
「い、いや、別に深い意味はないよ! ただ、さっきの英文見てて思っただけ」
慌てる美月。
でも、顔が少し赤い。
「悠真?」
「あ、ああ。好きな人……」
いる。
目の前に。
でも、それは言えない。
「……いないかな」
「そ、そうなんだ」
美月の表情が、少しだけ曇った気がした。
気のせいか?
「美月は?」
「え?」
「好きな人」
聞き返してしまった。
聞きたくないような、聞きたいような。
「……内緒」
「なんだよ、それ」
「だって、恥ずかしいし」
美月が頬を赤らめる。
ということは、いるのか。
好きな人が。
胸がチクリと痛む。
「そ、それより宿題!」
美月が話題を変える。
「あ、ああ」
また勉強に戻る。
でも、さっきまでの集中力は戻ってこない。
美月に好きな人がいる。
その事実が、頭の中でグルグル回る。
誰だろう。
クラスの誰か? 部活の先輩? それとも——
「悠真、手が止まってる」
「え? あ、ごめん」
「もう、しっかりしてよ」
美月に怒られる。
でも、その声もどこか上の空だ。
お互い、さっきの会話が尾を引いているらしい。
気まずい空気が流れる。
こんな時、ゲームなら——
『雰囲気を変えるため、休憩を提案しますか?』
みたいな選択肢が出るのに。
「……休憩しない?」
自分から提案した。
「そうだね。ちょっと疲れた」
美月も同意してくれた。
「何か飲む?」
「お茶でいい」
「了解」
キッチンに行って、お茶を入れる。
ついでにお菓子も持っていく。
「はい、お茶」
「ありがとう」
お茶を飲みながら、なんとなくテレビをつける。
日曜日のバラエティ番組が流れる。
でも、二人とも画面を見ているようで見ていない。
「あのさ」
「なに?」
同時に話しかけて、同時に止まる。
「先に言って」
「悠真から言って」
また同時。
思わず二人で笑ってしまった。
「なにこれ」
「息ぴったりじゃん」
笑い合ううちに、さっきまでの気まずさが和らいでいく。
「で、何言おうとしたの?」
「いや、大したことじゃない。美月は?」
「私も別に……」
結局、どちらも言いそびれる。
でも、雰囲気は元に戻った。
「そろそろ勉強再開する?」
「そうだね」
また机に向かう。
今度は集中できた。
美月も真面目に問題を解いている。
時々、分からないところを聞き合いながら、宿題を進めていく。
気がつけば、もう昼過ぎだった。
「お腹すいた」
美月がお腹を押さえる。
「昼飯どうする?」
「なんかある?」
「えーと……」
冷蔵庫を確認する。
「卵と……ベーコンと……あとは冷凍チャーハンくらい」
「じゃあ、オムライス作ろうか」
「え?」
「私が作るよ。材料貸して」
美月が立ち上がる。
「いや、悪いよ」
「いいの。お世話になってるお礼」
「でも——」
「はい、決定」
有無を言わさぬ笑顔。
こうなった美月には逆らえない。
キッチンで料理する美月を眺める。
エプロンを着けて、慣れた手つきで調理していく。
「何見てるの?」
「いや、手際いいなーと思って」
「当たり前でしょ。これでも料理は得意なの」
「知ってる」
「じゃあなんで、そんなに感心してるの?」
「なんか、新鮮で」
「?」
美月が首を傾げる。
説明しづらい。
いつも一緒にいる美月が、こうして俺の家で料理をしている。
その光景が、なんだか特別に見えて。
まるで——
「できた!」
美月の声で我に返る。
「はい、特製オムライス」
「おお、美味しそう」
ケチャップでハートマークが描かれている。
「これは……」
「あ、つい癖で」
美月が慌てる。
「いつも家で作る時の癖が出ちゃった」
「そ、そうなんだ」
ハートマーク。
深い意味はない。
ないはずだ。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べる。
「美味い!」
「本当?」
「うん、すごく美味しい」
「良かった」
美月が嬉しそうに微笑む。
二人で向かい合って、オムライスを食べる。
なんだか、新婚夫婦みたいだ。
「そういえば」
美月が口を開く。
「さっきの質問の答え、まだ聞いてない」
「質問?」
「好きな人いるかって」
また、その話題か。
「いないって言ったじゃん」
「本当に?」
美月が真っ直ぐ見つめてくる。
「……本当」
嘘だ。
大嘘だ。
でも、本当のことは言えない。
「ふーん」
美月は何か考えているような顔をしている。
「なあ、美月」
「なに?」
「さっき内緒って言ってた、好きな人って——」
聞いてしまいそうになって、慌てて口を閉じる。
「って?」
「……いや、なんでもない」
「なによ、気になるじゃん」
「ごめん」
また、言いそびれた。
ゲームなら、ここで時間が止まって、じっくり選択を考えられるのに。
現実は、一瞬一瞬が選択の連続で、やり直しがきかない。
午後も勉強を続けて、気がつけば夕方になっていた。
「そろそろ帰るね」
美月が荷物をまとめる。
「送ってく」
「いいよ、すぐそこだし」
「でも——」
「大丈夫。それより、今日はありがとう」
「俺の方こそ。オムライス美味しかった」
「また作ってあげる」
「本当?」
「うん」
美月が優しく微笑む。
玄関まで見送る。
「じゃあね、悠真」
「ああ、気をつけて」
ドアを閉めようとした時、美月が振り返った。
「悠真」
「ん?」
「私ね、今日すごく楽しかった」
「俺も」
「また……また一緒に勉強しようね」
「もちろん」
美月が帰っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は思う。
今日、何回選択の瞬間があっただろう。
そして、何回言いそびれただろう。
選択肢が見えない人生は、本当に難しい。
でも——
美月の笑顔を思い出す。
オムライスのハートマーク。
『また一緒に勉強しようね』
その言葉。
選択肢が見えなくても、これでいいのかもしれない。
少しずつ、一歩ずつ。
そんなことを考えながら、俺は部屋に戻った。
机の上には、美月が忘れていったシャーペンが一本。
明日、返さなきゃ。
そう思いながら、なんとなくそのシャーペンを握ってみる。
美月の温もりは、もう残っていなかった。