第7章 サブヒロインという概念
水曜日の放課後。
俺は図書室で勉強していた。
一人で。
美月は今日、用事があるとかで先に帰ってしまった。
「あれ? 神崎くん?」
声をかけられて顔を上げると、そこには見覚えのある女子が立っていた。
黒い長髪、メガネ、真面目そうな雰囲気。
図書委員の……名前が出てこない。
「えーと……」
「酷い! 同じクラスなのに名前忘れたの?」
「ご、ごめん」
「冗談よ。私は佐藤。佐藤真理」
そうだ、佐藤さんだ。
クラスでも目立たないタイプで、いつも本を読んでいる印象。
ゲーム的に言えば、完全に「サブヒロイン」ポジションだ。
「一人で勉強?」
「ああ、テスト近いし」
「真面目ね。白河さんは?」
「今日は用事があるって」
「ふーん」
佐藤さんが向かいの席に座る。
「私も勉強していい?」
「もちろん」
こうして、予期せぬ勉強会が始まった。
30分ほど黙々と勉強していたが、佐藤さんが口を開いた。
「神崎くんって、白河さんとずっと一緒よね」
「まあ、幼馴染だから」
「いいなあ」
「何が?」
「そういう関係」
佐藤さんが羨ましそうに言う。
「私、転校が多くて、そういう長い付き合いの友達いないから」
「そうなんだ」
「白河さんのこと、好き?」
直球すぎる質問に、俺は咳き込んだ。
「な、なんで急に」
「だって、見てれば分かるもの」
佐藤さんがクスッと笑う。
「神崎くん、白河さんのこと見る目が違うもの」
「そ、そんなことない」
「あるある。特に最近」
鋭い。
この子、かなり観察力がある。
「でも、白河さんも同じよ」
「え?」
「神崎くんのこと、特別な目で見てる」
「本当に?」
「うん。だから——」
佐藤さんが本を閉じる。
「私、諦めた」
「諦めた?」
「神崎くんのこと」
は?
「実は私、神崎くんのこと、ちょっと気になってたの」
爆弾発言だ。
まさかのサブヒロインからの好意発覚イベント。
「で、でも、俺なんて——」
「優しいし、真面目だし、意外と面白いし」
「そ、そうか?」
「うん。でも——」
佐藤さんが微笑む。
「神崎くんには白河さんがいるから」
「俺たちはまだ付き合ってないよ」
「でも、時間の問題でしょ?」
「……分からない」
「分かるよ。だって、二人とも相手のことしか見てないもの」
佐藤さんの言葉が胸に刺さる。
確かに、俺は美月のことばかり考えている。
「だから、応援することにした」
「応援?」
「うん。神崎くんと白河さんがうまくいくように」
「なんで?」
「だって——」
佐藤さんが立ち上がる。
「好きな人には、幸せになってほしいから」
そう言って、佐藤さんは帰っていった。
一人残された俺は、彼女の言葉を反芻する。
サブヒロイン。
ゲームなら、彼女のルートもあるんだろう。
でも、現実は違う。
俺が選ぶのは、選べるのは、一人だけ。
そして、それはもう決まっている。
図書室を出ると、夕日が校舎を赤く染めていた。
スマホを見ると、美月からメッセージが来ていた。
『用事終わった! 今どこ?』
『図書室にいたけど、もう出た』
『待ってて! 今から行く!』
数分後、息を切らせた美月が現れた。
「はあ、はあ……間に合った」
「走ってきたの?」
「だって、一緒に帰りたかったから」
その言葉に、胸が温かくなる。
「ありがとう」
「な、なによ急に」
「いや、なんでもない」
二人で並んで歩き始める。
「そういえば、誰かと一緒だった?」
「え?」
「図書室から誰か出てくるの見えた」
「ああ、佐藤さん」
「佐藤さん?」
「うん、たまたま会って、一緒に勉強してた」
美月の表情が少し曇る。
「そうなんだ」
「別に、本当にたまたまだよ」
「分かってる」
でも、美月の声には少し不安が混じっている気がした。
「美月」
「なに?」
「俺、美月が一番だから」
突然の告白めいた言葉に、美月が立ち止まる。
「な、なに言ってるの急に」
「いや、ただ言いたくなって」
「バカ」
美月が顔を赤くして、でも嬉しそうに笑う。
「でも、ありがとう」
「うん」
また歩き始める。
さっきよりも、少し距離が近い気がする。
「ねえ悠真」
「ん?」
「佐藤さんって、可愛いよね」
地雷質問だ。
「そ、そうかな」
「メガネ美人って感じで」
「美月の方が可愛い」
「!」
美月が驚いたように俺を見る。
「ま、また急に何言ってるの」
「本当のことだし」
「もう……」
美月が照れて俯く。
でも、手が俺の袖を掴んでいた。
「悠真」
「なに?」
「日曜日、本当に楽しみ」
「俺も」
「絶対、楽しい一日にしようね」
「もちろん」
美月の笑顔を見て、俺は思う。
サブヒロインなんて概念、現実には必要ない。
俺にとって、ヒロインは美月だけだ。
家に着いて、別れる時。
「じゃあね、悠真」
「ああ、また明日」
「あ、そうだ」
美月が振り返る。
「佐藤さんには悪いけど」
「え?」
「悠真は渡さないから」
そう言って、美月は家に入っていった。
聞いてたのか、佐藤さんとの会話。
いや、聞いてなくても、女の勘というやつか。
部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。
今日はいろいろあった。
佐藤さんの告白(?)。
美月の嫉妬(?)。
そして、俺の決意。
ゲームなら、ここで分岐が発生するところだ。
『佐藤ルート』か『美月ルート』か。
でも、俺の選択は最初から決まっている。
美月一択。
他に選択肢なんて、最初からなかった。
スマホが震える。
美月からだ。
『明日の朝、いつもより10分早く来て』
『なんで?』
『いいから』
『分かった』
『じゃあ、おやすみ』
『おやすみ』
なんだろう、明日の朝。
でも、美月の頼みなら断る理由はない。
サブヒロイン?
そんな概念、俺の人生には存在しない。
俺のヒロインは、最初から最後まで、美月だけだ。