第1章 観測者の資格¶
第1節 招聘¶
72時間。
それが私に与えられた決断の時間だった。量子機構の研究室で、私は招聘状の文字を何度も読み返した。優先度Ωの通信—理論上存在しないはずのレベル。
「セリグ博士」
振り返ると、同僚のドクター・陳が立っていた。
「また夜更かしですか?睡眠不足は量子計算に悪影響を与えますよ」
「少し考え事をしていました」私は答えた。
陳は私のコンソールを覗き込んだ。「データを見ている限り、昨夜のもつれ状態は完璧でしたね。成功率99.7%。あなたの記録を更新しました」
私は苦笑した。完璧な成功率。だが、その裏には無数の失敗した分岐があることを、私は知っている。量子力学の多世界解釈によれば、私が成功した世界と同じ数だけ、失敗した世界が存在する。
「陳さん」私は尋ねた。「もし、全ての可能性を同時に観測できるとしたら、それは祝福でしょうか、それとも呪いでしょうか?」
彼は困惑した表情を浮かべた。「哲学的な質問ですね。なぜそんなことを?」
「昔、神学を学んでいた頃の疑問です」私は誤魔化した。「神は全知全能だと言われますが、それは本当に幸せなことなのだろうか、と」
「興味深い視点ですね」陳は考え込んだ。「全てを知ることができるなら、苦しみも事前に分かってしまう。それは確かに重い負担かもしれません」
彼が去った後、私は再び招聘状のことを考えた。地下第14層—公式には存在しない階層。そこで何が私を待っているのか。
午後3時14分、私は決断した。
円周率の最初の三桁。無理数の始まり。永遠に続く非循環小数の入り口。この時刻には特別な意味がある気がした。
私は上司のドクター・山田に研究休暇を申請した。「個人的な調査のため」と理由を述べた。彼は眉をひそめたが、私の研究成果を評価していたため、一週間の休暇を承認してくれた。
準備は簡単だった。量子機構の職員である私には、地下施設へのアクセス権がある。問題は、第14層に到達する方法だった。
公式の記録では、この施設の最深部は第13層だ。それより下は存在しない—少なくとも、一般職員の知る限りでは。
その夜、私は施設内の構造図を再検討した。古い設計図を調べると、興味深い発見があった。第13層のエレベーター井戸は、実際にはもう一層下まで続いている。しかし、そのアクセスポイントは封印されていた。
非常用アクセス口Ω
設計図にはそう記されていた。
翌朝、私は通常通り出勤した。しかし、この日は特別な準備をしていた。夜勤の警備員との関係を利用して、アクセスカードを「借りる」ことにした。
「田中さん」私は夜勤の警備員に声をかけた。「量子実験で一晩中モニタリングが必要になりました。特別アクセス権をお借りできますか?」
田中は渋い顔をした。「規定では—」
「緊急実験です」私は嘘をついた。「量子もつれの持続時間テストです。データの連続性が重要なので」
結局、彼は私に管理者カードを貸してくれた。
午後11時、施設内はほぼ無人になった。私は第13層へ向かうエレベーターに乗った。心臓が激しく鼓動している。
第13層に到着すると、私は設計図を確認した。非常用アクセス口Ωは、メンテナンス区画の奥にあるはずだった。
暗い廊下を歩きながら、私は自分の選択について考えた。これは正しい決断なのだろうか。それとも、好奇心に駆られた愚かな行為なのだろうか。
廊下の突き当たりに、小さな扉があった。表示は「立入禁止」。しかし、カードリーダーが設置されている。
私は管理者カードをかざした。
緑のランプが点滅し、扉が開いた。
その向こうには、さらに下へと続くエレベーターがあった。
操作パネルには、見たことのないボタンがあった。ギリシャ文字のΩが刻まれている。
私はそのボタンを押した。
エレベーターが動き始めた。下へ、下へと。
そして—