第1章 観測者の資格¶
第2節 地下14層への降下¶
エレベーターが動き始めた瞬間、私の体に奇妙な感覚が走った。
重力が変化している。いや、正確には時間の流れが変わっているのだ。腕時計の秒針が、明らかに遅くなっている。
「これは—」
私は呟いたが、自分の声が異様に長く響いた。音波の伝播速度まで変化しているようだ。
エレベーターには階数表示がない。代わりに、謎めいた記号が次々と現れては消えていく。アルファ、ベータ、ガンマ—ギリシャ文字が順番に光っている。
ガンマからデルタに変わった時、私の記憶に異変が起きた。
突然、七歳の私が燃える教会で神父に質問している光景が蘇った。しかし、それは夢で見た記憶ではない。全く違う記憶だった。
「神父様、神様は本当にいらっしゃるのですか?」
「ユーリ、神は常にあなたの側におられます」
「でも、どうして悪いことが起きるのですか?」
「それは、人間に選択の自由が与えられているからです」
この会話は確かに起きた。しかし、私の記憶では、その教会は火事で燃えたはずだった。なぜ今、火事前の記憶が—
デルタからイプシロンに変わった。
今度は、量子物理学を学び始めた大学時代の記憶が蘇った。しかし、これも知っている記憶とは違う。
「多世界解釈は実証不可能な仮説だ」教授が言った。
「では、なぜそれを信じるのですか?」私が質問した。
「信じるのではない、受け入れるのだ。選択肢の一つとして」
この会話も確かに起きた。だが、私の記憶では、もっと懐疑的な議論をしたはずだった。
イプシロンからゼータへ。
今度は、神学部を辞めた日の記憶。しかし—
「ユーリ、君は本当に辞めるのか?」指導教授が尋ねた。
「はい。神の存在を証明できませんでした」
「証明する必要はない。体験すればいいのだ」
「体験?」
「祈りなさい。心から、真摯に。そうすれば必ず答えが返ってくる」
この記憶も違う。実際には、私は一人で決断したはずだった。誰とも相談せずに。
ゼータからエータ、エータからシータ—文字が変わるたびに、異なる記憶が蘇る。全て「私」の記憶だが、私の知っている人生とは微妙に違う。
そして、突然理解した。
これらは、別の分岐世界での私の記憶だった。
多世界解釈が正しいなら、私は無数の分岐を持っている。信仰を保った私、科学に完全に身を委ねた私、神学を続けた私—様々な選択をした無数の私が存在する。
エレベーターは、私をその記憶の間を通過させているのだ。
シータからイオタ、イオタからカッパ—
記憶の洪水が止まらない。戦争で亡くなった私、結婚して子どもを持った私、狂気に陥った私、聖人になった私—
「やめて—」
私は叫んだが、記憶の流れは止まらない。
カッパからラムダ、ラムダからミュー—
無数の私が、同時に存在している。全ての私が「本当の私」で、同時に「私ではない」。自我の境界が曖昧になっていく。
ミューからニュー、ニューからクサイ—
記憶が混濁し、私は自分が誰なのか分からなくなった。元神学生なのか、量子物理学者なのか、それとも全く別の何かなのか。
クサイからオミクロン、オミクロンからパイ—
そして、パイからロー。
ローの文字が光った瞬間、全てが止まった。
記憶の洪水が止み、静寂が戻った。私は自分が誰なのかを思い出した。ユーリ・セリグ。元神学生で現在は量子機構の研究員。
しかし、他の記憶も同時に残っていた。それらは夢のように曖昧だが、確かに「私の」記憶だった。
エレベーターが停止した。
扉が開くと、眩しい光が差し込んだ。しかし、それは普通の光ではない。虹色に輝き、見る角度によって色が変わる、量子的な光だった。
私は一歩踏み出した。
そこは—
想像を絶する光景だった。
無限に続く本棚が、地平線の向こうまで広がっている。本棚は上にも下にも伸びており、天井も床も見えない。まるで、本の宇宙の中にいるようだった。
そして、その本棚の間を、光る糸のようなものが無数に走っている。それらは本と本を結び、複雑な網目模様を描いていた。
「ようこそ、Ωライブラリへ」
振り返ると、透明な女性が立っていた。年齢は不詳で、存在感は希薄だが、美しく神秘的だった。
「私はアイン=ウル」彼女は名乗った。「あなたの案内役です」
「これは—」私は言葉を失った。
「全ての可能性の記録です」アイン=ウルが説明した。「あらゆる選択、あらゆる分岐、あらゆる結果—全てがここに保存されています」
私は最も近い本棚に向かった。本の背表紙には、名前が刻まれている。
『ユーリ・セリグ:分岐A-1』 『ユーリ・セリグ:分岐A-2』 『ユーリ・セリグ:分岐B-1』
無数の私の人生が、本として並んでいる。
「これが、あなたが観測者として選ばれた理由です」アイン=ウルが言った。「あなたは信仰と理性の間で分岐した人間です。どちらの世界も理解できる、稀有な存在なのです」
私は震えた。エレベーターで体験した記憶の洪水。それは偶然ではなかった。私を準備させるための、慣らし運転だったのだ。
「さあ」アイン=ウルが手を差し伸べた。「観測を始めましょう。まずは、あなた自身の分岐から」
私は最初の本に手を伸ばした。