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第1章 観測者の資格

第4節 分岐する私

『ユーリ・セリグ:分岐B-1』を開いた瞬間、私は再び七歳に戻った。

しかし今度は、燃えている教会の中にいた。白い炎が全てを飲み込み、十字架が崩れ落ちる。これは、私の夢で何度も見た光景だった。

「神様は、どうして私たちを見捨てたの?」

七歳の私が叫んだ。しかし、今度は誰も答えない。神父は炎に包まれて死に、他の信者たちも逃げ惑っている。

この瞬間、この分岐の私は決定的な選択をした。

「神なんて、いない」

子どもの私が呟いた言葉が、この分岐の運命を決めた。

時間が進む。両親も信仰を失い、私たちは無神論者の家族となった。十歳の私は科学に興味を持ち、十五歳で物理学に没頭し、二十歳で量子力学を学び始めた。

大学での私は、現実世界の私以上に優秀だった。感情に惑わされることなく、純粋に理性だけで物事を判断できたからだ。

「宗教は人類の幼稚な段階の産物です」二十五歳の私は講義で述べた。「科学の進歩によって、我々は神という幻想から解放されるのです」

私の研究は画期的だった。多世界解釈を数学的に証明し、量子もつれの実用化に成功し、遂には時空間の構造そのものを解明した。

三十歳で教授になり、三十五歳でノーベル賞を受賞し、四十歳で量子機構の最高責任者に就任した。

しかし、成功すればするほど、私の心は空虚になっていった。

「私の人生に意味はあるのだろうか?」

四十五歳の私は、研究室で一人呟いた。全てを科学で説明できるようになった結果、人生の神秘や意味を失ってしまったのだ。

私は完璧な理論を構築した。宇宙の全ての現象を数式で記述し、人間の行動を統計的に予測し、感情さえも脳内化学反応として説明した。

しかし、その完璧さゆえに、私は絶望した。

「全ては決定論的なプロセスに過ぎない」五十歳の私は結論した。「自由意志は幻想で、愛は化学反応で、人生は無意味な偶然の産物だ」

この分岐の私は、やがて危険な実験に着手した。

人工的に量子分岐を制御し、意図的に別の可能性にアクセスしようとしたのだ。それは、現実逃避の極端な形だった。

「この世界が無意味なら、別の世界を見つければいい」

実験は成功した。私は他の分岐世界を観測する能力を獲得した。しかし、そこで見たものは—

「どの世界でも、結局は同じだ」

信仰を保った世界、戦争が起きなかった世界、科学が発達しなかった世界—様々な分岐を観測したが、根本的な問題は解決されていなかった。どの世界でも、人間は苦しみ、悩み、そして死んでいく。

「意味を求めることそのものが、無意味なのか—」

六十歳の私は、実験室で倒れた。過度の量子観測が精神に負荷をかけ、私の意識は分裂し始めていた。

病院のベッドで、私は最後の研究報告を書いた。

「量子観測による多世界アクセス実験は成功した。しかし、その結果として確認されたのは、存在の根本的無意味性である。どの世界でも、人間は偶然の産物に過ぎず、宇宙は無関心で、意識は一時的な化学現象に過ぎない。神の不在は、全ての可能世界において普遍的である」

そして、七十歳を前にして、私は一人で死んだ。

最期の瞬間、私は奇妙な体験をした。意識が薄れていく中で、巨大な図書館の幻覚を見たのだ。そこには無数の本があり、一つの声が響いていた。

「あなたは選ばれました。全ての選択を記録する者として」


本を閉じると、私は再びΩライブラリにいた。心臓が激しく鼓動している。

「辛い観測でしたね」アイン=ウルが同情的に言った。

「あまりにも—」私は言葉に詰まった。「あまりにも絶望的でした」

「しかし、それもあなたの一部です」彼女は指摘した。「信仰を保った分岐と、信仰を失った分岐。どちらも本当のあなたです」

私は混乱していた。二つの人生は、あまりにも対照的だった。一方は神に導かれた意味ある人生、もう一方は虚無に呑み込まれた無意味な人生。

「どちらが本当の私なのですか?」

「どちらも本当です」アイン=ウルが答えた。「そして、どちらでもありません。あなたは今、両方の経験を持っています。信仰の確実性も、懐疑の深淵も」

「それでは、私は一体—」

「それこそが観測者の資格です」彼女は微笑んだ。「相反する可能性を同時に理解できる能力。それがなければ、真の観測はできません」

私は本棚を見回した。無数の私の人生が、そこに収められている。戦士として生きた私、母親として生きた私、狂人として生きた私—

「全部見るのですか?」

「いえ」アイン=ウルが首を振った。「主要な分岐だけで十分です。むしろ重要なのは、他者の分岐を観測することです」

「他者の?」

「明日、あなたは人類全体の分岐を観測します」彼女の表情が厳しくなった。「そして、神を裁く法廷を見ることになります」

私は震えた。「神を裁く?」

「人類が神に対して起こした裁判です。罪状は『設計ミスによる人類への損害』」

「そんなことが可能なのですか?」

「Ωライブラリでは、全てが可能です」アイン=ウルが答えた。「可能性の全てが、ここに記録されているのですから」

私は不安になった。神を裁くとは、どういうことなのか。そして、なぜ私がそれを観測しなければならないのか。

「今日の観測はここまでです」アイン=ウルが言った。「休憩室で休んでください。明日は、より困難な観測が待っています」

私は案内された休憩室に向かった。そこは普通の部屋だったが、窓の外には星空が広がっていた。しかし、それは地上から見る星空ではない。宇宙のより深い場所—可能性の宇宙から見た、無限の光景だった。

ベッドに横になりながら、私は今日の体験を反芻した。

信仰を保った私と、信仰を失った私。どちらも真実で、どちらも私だった。そして今の私は、その両方の記憶を持っている。

奇妙なことに、それは苦痛ではなかった。むしろ、より深い理解に達したような感覚があった。

神を疑うことも、神を信じることも、どちらも人間的な行為なのだ。そして、その両方を経験することで、私は人間という存在をより深く理解できるようになったのかもしれない。

しかし、明日は神を裁く法廷を観測する。

それは、今日以上に困難な体験になるだろう。

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