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第1章 観測者の資格

第5節 観測者の条件

その夜、私は奇妙な夢を見た。

無数の私が、円形に並んで座っている。信仰を保った私、信仰を失った私、戦士になった私、学者になった私、母親になった私、犯罪者になった私—ありとあらゆる可能性の私が、一堂に会していた。

「なぜ我々は選ばれたのか?」

誰かが質問した。声は私自身の声だったが、どの私が話したのかはわからない。

「分岐点にいるからだ」

別の私が答えた。

「どういう意味だ?」

「我々は、信仰と懐疑の境界にいる。どちらにも転びうる、不安定な存在だ。だからこそ、どちらの立場も理解できる」

「しかし、それは苦痛ではないか?」

「確信を持てない苦痛、常に疑い続ける苦痛—」

「その苦痛こそが、観測者の資格なのだ」

最も老いた私—おそらく信仰を保った分岐の私—が立ち上がった。

「神もまた、同じ苦痛を味わっている。全てを知りながら介入できない苦痛、愛する者たちが苦しむのを見ていなければならない苦痛を」

「では、我々は神と同じなのか?」

「同じではない」無神論者の私が反論した。「我々は有限だが、神は無限だ。我々の苦痛には終わりがあるが、神の苦痛には終わりがない」

「だからこそ」信仰を保った私が続けた。「我々は神を理解できるのかもしれない」


目が覚めると、アイン=ウルが私のベッドサイドに立っていた。

「おはようございます、ユーリ」

「どのくらい眠っていましたか?」

「時間の概念は、ここでは意味をなしません」彼女は微笑んだ。「重要なのは、あなたが準備できたかどうかです」

私は起き上がった。昨夜の夢の記憶が、まだ鮮明に残っている。

「アイン=ウル」私は尋ねた。「なぜ私が選ばれたのですか?本当の理由を教えてください」

彼女は少し考えてから答えた。

「あなたは『矛盾』だからです」

「矛盾?」

「信仰を求めながら疑い、真理を求めながら不確実性を受け入れる。論理を重視しながら直感を信じる。そのような矛盾した存在だからこそ、複雑な現実を観測できるのです」

「しかし、矛盾は苦痛です」

「その通り」アイン=ウルが頷いた。「観測者の役割は苦痛を伴います。しかし、その苦痛なしには、真の理解は得られません」

彼女は私を食堂に案内した。そこには他にも観測者がいた—様々な時代、様々な文明から選ばれた人々。

古代ギリシャの哲学者、中世の神秘主義者、近代の科学者、未来の思想家—彼らは皆、私と同じような複雑な表情をしていた。確信と疑念、希望と絶望、愛と恐怖を同時に抱えているような表情を。

「皆、同じ矛盾を抱えているのです」アイン=ウルが説明した。「だからこそ、観測者として機能できるのです」

朝食の後、私たちは再びライブラリに向かった。しかし今日は、個人の分岐ではなく、文明全体の分岐を観測することになっていた。

「こちらです」アイン=ウルが案内したのは、ライブラリの中央部だった。そこには巨大な球体があり、その表面には無数の映像が映し出されていた。

「これは『文明球』」彼女が説明した。「人類文明の全ての可能性が記録されています」

球体の表面を見ると、様々な人類の歴史が同時に展開されていた。宗教中心の文明、科学中心の文明、戦争に明け暮れる文明、平和を実現した文明—

「その中でも、特に重要な分岐があります」アイン=ウルが球体に触れると、一つの映像が拡大された。

それは法廷の映像だった。巨大なドーム状の建物の中で、無数の人々が被告席の一点を見つめている。

「これは?」

「神への裁判です」アイン=ウルが答えた。「ある分岐世界で、人類が神を被告として裁判を起こしました」

映像をよく見ると、被告席は空席だった。

「神は出廷されないのですか?」

「神は全知全能ですが、法的には実体が不明確です」アイン=ウルが説明した。「そのため、法廷は代理人を求めました」

「代理人?」

「最も神に近い観測者—すなわち、あなたです」

私は驚いた。「私が神の代理人に?」

「正確には、神の立場を理解できる証人として」彼女が訂正した。「あなたは昨日、信仰と懐疑の両方を体験しました。だからこそ、神の苦悩も理解できるはずです」

私は戸惑った。神を代弁するなど、私にできるのだろうか。

「でも、私は神ではありません」

「もちろんです」アイン=ウルが微笑んだ。「しかし、神と同じ種類の苦痛を味わったことがあります。全てを知りながら選択しなければならない苦痛を」

確かに、昨日の観測で私は無数の可能性を見た。そして、その中から現実の一つを選択する困難さを感じた。それは、神が味わっている苦痛と似ているのかもしれない。

「わかりました」私は答えた。「やってみます」

「ありがとうございます」アイン=ウルが深くお辞儀をした。「では、法廷に向かいましょう」

彼女が文明球に触れると、私たちの周囲の空間が変化し始めた。ライブラリが薄れ、法廷の風景が現れてくる。

「一つだけ覚えておいてください」彼女が最後に言った。「この裁判の結果は、あなたの証言にかかっています。神を有罪とするか無罪とするか—その判断が、この分岐世界の運命を決めるのです」

私は緊張した。そんな重大な責任を、私が負えるのだろうか。

しかし、もう後戻りはできない。

空間の変化が完了し、私は法廷の中に立っていた。

第2章へ続く