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第2章 断罪される神

第1節 異世界法廷

翌日、私は新しい観測のためにΩライブラリに戻った。

休憩室での一夜は、奇妙な夢で満たされていた。無数の自分が入り乱れ、異なる選択を繰り返し、異なる結末へと向かっていく。目が覚めた時、私は自分が誰なのか、一瞬わからなかった。

「おはようございます、ユーリ」

声をかけられて振り返ると、アイン=ウルが立っていた。今日の彼女は、昨日とは微妙に違って見えた。より透明度が高く、存在感が薄い。

「今日の観測は、特別なものになります」彼女は説明した。「昨日はあなた自身の分岐を見ましたが、今日は他者の分岐を観測します」

「他者の?」

「人類全体の分岐です。ある重大な分岐点での、二つの可能性を見ていただきます」

アイン=ウルは私をライブラリの奥へと案内した。昨日とは違うエリアだ。ここの書架は、個人の人生ではなく、文明全体の歴史を記録しているようだった。

「こちらです」

彼女が手を差し出した先には、二冊の厚い本があった。表紙には、それぞれ異なるタイトルが刻まれている。

『人類史A:信仰の時代』 『人類史B:理性の時代』

「これは?」

「人類文明の二つの可能性です」アイン=ウルが説明した。「約五千年前、人類は重大な分岐点に立ちました。宗教を中心とした社会を築くか、科学を中心とした社会を築くか。その選択が、現在の二つの世界を生み出しました」

私は最初の本を開いた。

『人類史A:信仰の時代』

この世界では、宗教が人類文明の中心となっていた。科学的発見は宗教教義との適合性を測られ、不適合なものは異端として排除された。宇宙の構造、生命の起源、人間の本性—全てが宗教的世界観の中で解釈された。

しかし、この世界には特別な特徴があった。科学が宗教に従属した結果、人類は神との接触を果たしたのだ。

21世紀、量子力学と神学の融合研究が、意外な結果をもたらした。私立バチカン量子研究所において、神との直接通信が可能になったのだ。

「神の意思は明確でした」ページには記されていた。「人類には自由意志が与えられている。しかし、その自由は完全ではない。人類は正しい道を選ぶこともできるし、悪い道を選ぶこともできる。しかし、悪い道を選んだ場合の結果について、責任を負うのは人類自身である」

この世界では、神は理解可能な存在だった。完全で、正義で、慈悲深い存在。人類はその教えに従い、平和で繁栄した文明を築いた。

しかし—

23世紀、状況が変わった。人類はΩライブラリを発見したのだ。そして、そこで目にしたのは—

自分たちが信仰してきた神が、実は無数の可能性の中の一つに過ぎないという事実だった。

神は特定の可能性を選んでいなかった。ただ、人類がそう信じるように仕向けていただけだった。

この発見は、信仰中心の文明に破滅的な衝撃を与えた。教会は分裂し、社会は混乱し、多くの人々が絶望した。

そして、一つの運動が始まった。

「神への逆訴訟」

この世界の人類は、神を被告として法廷に引きずり出した。罪状は「設計ミスによる人類への損害」だった。

私はページをめくった。この世界では、私が昨日目撃した法廷が、現在進行中なのだ。

「では、もう一つの世界は?」私はアイン=ウルに尋ねた。

「ご覧ください」

私は二冊目の本を開いた。

『人類史B:理性の時代』

この世界では、科学が人類文明の中心となっていた。宗教は個人的信念の領域に限定され、社会の意思決定は理性と科学的根拠に基づいて行われた。

この世界の人類は、宇宙の構造を理解し、量子力学を獲得し、遂には時空を操作する技術さえ手に入れた。しかし—

彼らは一つの重大なジレンマに直面した。

科学の進歩によって、人類は自由意志の非存在を科学的に証明してしまったのだ。脳科学、量子物理学、情報理論—あらゆる分野からの証拠が、「人間の選択は過去の経験と現在の状況によって完全に決定される」ことを示していた。

「つまり」ページには記されていた。「人間には本当の意味での選択の自由はない。全ては決定論的プロセスの結果であり、道徳的責任も、罪も、罰も、全てが無意味である」

この発見は、法律システムを破綻させた。罪人は無罪を主張し—「私に選択の自由はなかった」と。裁判官は武器を置き—「判決を下すのも、決定論的プロセスに過ぎない」と。

最終的に、この世界の人類は一つの結論に到達した。

神など存在しない。人間に道徳的責任はない。存在するのは、ただ物理法則と統計的確率だけだ。

しかし—

24世紀、この世界の人類もΩライブラリを発見した。そして、そこで知ったのは—

自分たちが否定してきた神が、実は確実に存在しているという事実だった。

その神は、すべての可能性を観測し、記録し、保存していた。人間の選択が決定論的であろうとなかろうと、その結果は全て記録されていた。

この発見は、理性中心の文明に新たな問いを突きつけた。

「観測するだけなら、なぜ介入しないのか?」

この世界の人類も、異なる角度から「神への逆訴訟」を開始した。罪状は「不作為による人類への損害」だった。

私は二冊の本を閉じた。

「興味深いですね」アイン=ウルが言った。「二つの全く異なる文明が、同じ結論に到達した。異なる理由で、同じ被告を訴えた」

「つまり、神は—」

「どちらの世界でも有罪です」彼女は笑った。「どんな理由であろうと、人類は結局、神を許すことができない。それが、人間の本性です」

「でも、これはただの空想ではないのですね?」私は確認した。「実際に、どこかでこの裁判が行われている」

「その通りです」アイン=ウルが答えた。「あなたはこれから、その法廷を直接観測することになります」

私の周囲の空間が、再び歪み始めた。

今度は、ライブラリから直接、法廷へと移動するようだ。

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