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第2章 断罪される神

第4節 証拠としての分岐

「次に、量子機構研究員ユーリ・セリグ博士の証言を求めます」

ラメク裁判官の声が法廷に響いた。私は証言台に立ち、緊張で手のひらが汗ばんでいるのを感じた。

「博士、あなたはΩライブラリの観測者として、人類の選択パターンを詳細に調査されました。その結果について証言してください」

私は深呼吸をした。これから語ることは、この世界の人々にとって衝撃的な内容になるだろう。

「はい」私は答えた。「私の観測によると、人間の選択には明確な統計的偏りが存在します」

法廷内がざわめいた。

「具体的に説明してください」

「まず、道徳的選択において」私はΩライブラリから得たデータを思い出しながら続けた。「善行を選択する確率は約34%、悪行を選択する確率は約66%です。これは、人間が本質的に悪に傾きやすいことを示しています」

検察席から声が上がった。「それは設計上の欠陥ではないのか?」

「続けてください」ラメク裁判官が私を促した。

「さらに重要なのは、重大な選択における決定要因です」私は続けた。「人間が人生の転換点で下す決断は、68%が過去のトラウマによって決定されます。つまり、自由意志による選択は32%に過ぎません」

傍聴席から小さなため息が聞こえた。

「しかし最も問題なのは」私は声を上げた。「これらの確率が、全ての分岐世界で一定だということです」

「どういう意味ですか?」

「信仰中心の世界でも、科学中心の世界でも、さらには全く異なる文明を築いた世界でも、この確率は変わりません。善悪の基準が違っても、文化が違っても、確率分布は同じです」

法廷内が静まり返った。

「それが何を意味するのか、明確に述べてください」

私は一瞬躊躇した。だが、真実を語らなければならない。

「人間の選択パターンは、環境や文化によって決まるのではありません。それは設計段階で、確率として組み込まれているのです」

「つまり?」

「神は人間を作る際に、意図的に『不完全』に設計したということです。自由意志があるように見せかけて、実際には確率的に決定された選択しかできない存在として」

法廷内が騒然となった。

「異議あり!」

突然、空席だった被告席から声が上がった。誰もいないはずの席から、確かに声が聞こえたのだ。

「異議の理由を述べなさい」ラメク裁判官が被告席に向かって言った。

透明な何かが、被告席に座っているようだった。空気の歪みのような、存在感だけがある何かが。

「証言に不正確な部分があります」声は続いた。「人間の選択確率は『設計』によるものではありません。それは『必然』によるものです」

「必然とは?」

「自由意志と決定論は対立概念ではありません。真の自由意志とは、決定論的制約の中で最善を選ぶ意志のことです。悪を選ぶ確率が高いのは、善を選ぶことがより困難で、より価値があるからです」

私は驚いた。被告—神—が直接法廷に現れたのだ。

「では、なぜ人間に苦しみを与えるのですか?」私は思わず質問した。

「苦しみは与えられるものではありません」神の声が答えた。「苦しみは選択の結果です。そして、その苦しみを通じて成長することこそが、人間の目的なのです」

「しかし、無意味な苦しみもあります!」法廷の誰かが叫んだ。「病気、災害、理不尽な死—」

「無意味に見える苦しみこそが、最も重要な選択を迫ります」神は答えた。「絶望の中で希望を選ぶか、諦めを選ぶか。他者を助けるか、見捨てるか。その選択が、人間の本質を決定するのです」

私は混乱していた。これまでの観測データは間違いなく、人間の選択の偏りを示していた。しかし神の説明を聞くと、それが意図的な設計というより、より深い目的があるように思えてきた。

「証人は下がってください」ラメク裁判官が言った。「この法廷は一時休廷とします」

私は証言台を降りながら、アイン=ウルを探した。彼女はいつものように、法廷の隅に立っていた。

「どう思いますか?」私は彼女に近づいて尋ねた。

「面白い展開ですね」彼女は微笑んだ。「神が自ら弁護に回るとは。しかし、これで裁判は本格的に始まったと言えるでしょう」

「あなたは神の味方なのですか?」

「私は観測者です」アイン=ウルは答えた。「善悪を判断するのではなく、ただ記録するだけです。しかし—」

「しかし?」

「この裁判の結果は、あなたの次の選択にかかっています」

「私の?」

「明日、あなたは最終証言を求められます。その時、あなたは神を有罪とするか、無罪とするかを決めることになります」

私は震えた。なぜ私がそんな重大な決断を?

「なぜ私なのですか?」

「なぜなら」アイン=ウルは謎めいた笑顔を浮かべた。「あなたは神と同じ苦しみを背負っているからです」

「同じ苦しみ?」

「全てを観測する苦しみです。全ての可能性を知りながら、一つの選択しかできない苦しみです」

私はその言葉の意味を理解し始めた。

Ωライブラリで無数の人生を観測した私は、確かに神と似た立場にいた。全てを知っていながら、介入することはできない。ただ記録し、観測するだけ。

そして今、私はその重荷の中で、最も重要な選択を迫られている。

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