第3章 自由意志の彼岸¶
第3節 選択の重み¶
私は運命の収束点での選択に注目して観測を続けた。同じ瞬間、同じ状況でも、私の選択は微妙に異なっていた。
37歳の収束点での選択
戦士として生きた私の場合: 十字軍の野営地で、私は司令官の命令に疑問を抱いていた。明日、無防備な村を攻撃することになっている。
「これは神の意志なのか?」私は自問した。
ある世界では、私は命令に従った。村は燃え、多くの無辜の民が犠牲になった。私はその後、戦死するまで罪悪感に苛まれた。
別の世界では、私は命令を拒否した。軍法会議で処刑されたが、死ぬ間際に「神の意志に従った」という確信を得た。
さらに別の世界では、私は夜中に村人たちに警告を発し、彼らを逃がした。その後、軍を離脱して隠者として生きた。
同じ状況、同じ私、しかし選択は異なる。何が選択を決定するのか?
私は分析を続けた。
選択を決定する微細な要因
犯罪者として生きた私の場合、37歳での最後の大仕事の判断は、実に些細な要因によって左右されていた。
ある世界では、計画の前日に雨が降った。私は雨を不吉な前兆と受け取り、仕事を中止した。
別の世界では、同じ雨を見て「足跡が残らない」と判断し、計画を実行した。
さらに別の世界では、雨は降らなかったが、通りで子供が転んで泣いているのを見た。その子供の泣き声が、私の幼少期の記憶を呼び起こし、計画を中止させた。
「これは偶然ですか?」私はアイン=ウルに尋ねた。
「偶然ではありません」彼女が答えた。「量子レベルでの分岐です」
私は困惑した。「量子レベル?」
アイン=ウルは分析装置を操作した。画面に、極小の粒子の動きが表示された。
「人間の脳内では、常に量子レベルでの確率的な現象が起きています」彼女が説明した。「神経細胞の発火、神経伝達物質の放出—これらは完全に決定論的ではありません」
「つまり?」
「あなたの選択は、脳内の量子的ゆらぎによって影響を受けます」アイン=ウルが続けた。「雨を見た時、脳内のどの神経回路が活性化されるかは、量子的確率に左右されます」
私は愕然とした。「私の選択は、量子的偶然によって決まるということですか?」
「部分的には、そうです」
「それでは、私に責任はないのでは?」
アイン=ウルは首を振った。「責任はあります。なぜなら、量子的ゆらぎは完全にランダムではないからです」
「どういう意味ですか?」
「あなたの人格、価値観、過去の経験—これらが量子的ゆらぎに重み付けをします」彼女が説明した。「同じ雨を見ても、なぜ善の方向に解釈する確率が高いのか、なぜ悪の方向に解釈する確率が高いのか—それは、あなたの人格によって決まります」
私は理解し始めた。選択は確率的だが、完全にランダムではない。私の本質が、確率に重み付けをしている。
「では、私の本質とは何ですか?」
「それが最も重要な問題です」アイン=ウルが答えた。「あなたの全ての可能性を観測して、共通する特徴を見つけてください」
私は観測を続けた。
選択の根底にある本質
千の人生を詳細に分析した結果、私は驚くべき事実を発見した。
どの人生でも、私は重要な選択の瞬間に、必ず「他者への影響」を考慮していた。
戦士の私は、村人の安全を考えた。 犯罪者の私は、被害者の痛みを想像した。 母親の私は、子供の将来を考えた。 聖職者の私は、信者の救済を考えた。
選択の内容は異なるが、「他者への配慮」という要素は常に存在していた。
「これが私の本質なのですか?」私は尋ねた。
「その通りです」アイン=ウルが答えた。「あなたの魂の核心は『他者への愛』です。それが、あなたの選択に重み付けを与えています」
私は深く考え込んだ。「しかし、愛があっても、間違った選択をすることがあります」
「そうです。愛があっても、判断を誤ることがあります」アイン=ウルが認めた。「完全な愛、完全な判断—これは神のみが持つ属性です」
「では、私たちの選択は常に不完全なのですか?」
「不完全ですが、無意味ではありません」アイン=ウルが答えた。「不完全な愛であっても、それは真実の愛です。間違った判断であっても、それは真実の判断です」
私は新たな疑問を抱いた。「神はなぜ、私たちに不完全な愛しか与えなかったのですか?」
「それは、神の愛が不完全だからです」
私は驚いた。「神の愛が不完全?」
「神もまた、成長する存在です」アイン=ウルが説明した。「神の愛は完全を目指していますが、まだ完全ではありません。そして、人間の不完全な愛は、神の愛の成長に寄与しています」
私は混乱した。「どういう意味ですか?」
「あなたの千の人生での選択、その全てが神の学習データです」アイン=ウルが答えた。「人間がどのような状況で、どのような選択をするか。その選択がどのような結果をもたらすか。これらの情報が、神の愛をより完全にしていきます」
私は戦慄した。「私たちは実験動物なのですか?」
「実験動物ではありません」アイン=ウルが否定した。「神の共同創造者です」
「共同創造者?」
「あなたの選択は、より良い世界の創造に貢献しています」彼女が説明した。「神は全知ですが、それは『全てを知っている』という意味ではありません。『全てを知ることができる』という意味です。しかし、実際に経験することで、神の理解はより深くなります」
私は深い沈黙に陥った。自分の選択が、神の成長に寄与している。その重みは、想像を絶するものだった。
「明日の判決も、神の成長のためなのですか?」
「そうです」アイン=ウルが頷いた。「人類が神を裁くことで、神はより良い創造者になることができます」
私は責任の重さに押しつぶされそうになった。しかし、同時に、深い意味を感じた。
私の選択には、真の価値がある。不完全であっても、間違いを犯しても、それは宇宙の進歩に貢献している。
「さあ、最後の観測を行いましょう」アイン=ウルが言った。「今度は、選択の『重み』そのものを観測してください」
私は次の本を手に取った。選択の重み—それは、私が最も理解したい概念だった。