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第3章 自由意志の彼岸

第4節 決定論的恐怖

私は最後の観測として、選択の「重み」そのものを観測することにした。アイン=ウルが新しい装置を起動した。それは、私の脳波と選択の関係をリアルタイムで分析するものだった。

「これで、あなたが選択する瞬間の脳内状態を観測できます」彼女が説明した。

私は再び本を手に取った。今度は、選択の瞬間に何が起きているかを内側から観測する。

選択の瞬間の内的体験

私は犯罪者として生きる世界で、37歳の重要な選択の瞬間を再体験した。

最後の大仕事を前に、私は路地裏のベンチに座っていた。雨が降り始めている。

「やるべきか、やめるべきか」

その瞬間、私の意識の中で何かが起きた。複数の声が同時に響いた。

声1(論理的な声):「リスクが高すぎる。雨で足跡が残る」 声2(感情的な声):「もう犯罪は嫌だ。まともに生きたい」 声3(欲望の声):「金が必要だ。これで最後にすればいい」 声4(恐怖の声):「捕まったら終わりだ」 声5(絶望の声):「どうせまともには生きられない」

五つの声が同時に主張している。しかし、最終的に私の選択を決定したのは、別の何かだった。

第六の声:「もし母親が見ていたら、何と思うだろう」

この声が響いた瞬間、私は仕事を断念した。

私は装置のデータを確認した。選択の瞬間、私の脳内では実に複雑な処理が行われていた。しかし、最終的な決定は、脳の最も古い部分—本能と感情を司る領域から発せられていた。

「論理ではなく、感情が選択を支配しているのですね」私はアイン=ウルに言った。

「感情と呼ぶより、『魂の核心』と呼んだ方が正確でしょう」彼女が答えた。

私は別の人生も観測した。今度は聖職者として生きた世界で、教会を去るかどうかの選択の瞬間。

聖職者の選択の瞬間

私は祈りを捧げていた。信者の一人が不治の病で苦しんでいる。家族は奇跡を求めているが、私には何もできない。

「神よ、なぜこの人を救わないのですか?」

その時、複数の声が響いた。

声1(信仰の声):「神のご計画を信じなさい」 声2(疑念の声):「神などいないのではないか」 声3(責任の声):「信者を導かなければならない」 声4(逃避の声):「この責任から逃れたい」 声5(絶望の声):「自分の信仰も揺らいでいる」

そして、第六の声が響いた。

第六の声:「この人の苦痛に、せめて寄り添うことはできる」

この声に従って、私は教会に留まることを選んだ。

私は愕然とした。どの人生でも、最終的な選択を決定するのは同じ「第六の声」だった。それは愛の声、他者への配慮の声だった。

「この第六の声は何ですか?」私は尋ねた。

「あなたの魂の本質です」アイン=ウルが答えた。「神があなたに与えた、愛の種子です」

「しかし、この声も脳の産物ではありませんか?」

「脳の産物でもあり、魂の産物でもあります」アイン=ウルが説明した。「脳は魂の表現媒体です。魂の声は、脳を通して現れます」

私は新たな恐怖を感じた。「では、この愛の種子も、神によってプログラムされたものなのですか?」

「そうです」

私は震えた。「つまり、私の愛も、私の選択も、全て神の設計によるものなのですか?」

「そうです」アイン=ウルが冷静に答えた。

私は深い絶望に陥った。「では、私は何なのですか?神の操り人形なのですか?」

「操り人形ではありません」アイン=ウルが否定した。「神の一部です」

「一部?」

「あなたは神の愛の一部を体現しています」彼女が説明した。「完全ではありませんが、確実に神の愛の一部です」

私は混乱した。「神の一部なら、なぜ間違いを犯すのですか?」

「神自身が不完全だからです」アイン=ウルが答えた。「神は完全性を目指していますが、まだ到達していません」

私は新たな恐怖に襲われた。決定論的恐怖—全てが予め決められているという恐怖だった。

「私の選択も、この恐怖も、全て神によって決められているのですか?」

「決められているというより、『可能性の範囲内』です」アイン=ウルが答えた。「あなたが今感じている恐怖も、可能性の一つです。しかし、この恐怖から何を学ぶか、どう対処するかは、あなた次第です」

「本当にそうでしょうか?」私は疑った。「私の対処法も、予め決められているのではありませんか?」

アイン=ウルは長い沈黙の後、答えた。

「ユーリ、あなたは今、最も重要な問いに到達しました」彼女が言った。「決定論と自由意志の矛盾—これは神自身も苦悩している問題です」

「神も苦悩しているのですか?」

「そうです」アイン=ウルが頷いた。「神は全知全能ですが、論理的矛盾を解決することはできません。『全てを決定しながら、同時に自由を与える』—これは論理的に不可能です」

私は驚いた。「では、神も答えを知らないのですか?」

「知りません」アイン=ウルが答えた。「だからこそ、人間を創造したのです。人間の経験を通して、この矛盾の解決策を見つけようとしています」

私は深い理解に到達した。神も、私と同じように苦悩している。決定論と自由意志の矛盾に悩んでいる。

「では、明日の裁判は—」

「その矛盾に対する人類の答えを聞くためです」アイン=ウルが答えた。「神は人類に問いかけています。『決定論と自由意志、どちらを選ぶのか』と」

私は恐怖から理解へと移行した。これは単なる決定論ではない。神と人類の共同作業なのだ。

「私の選択も、この共同作業の一部なのですね」

「そうです」アイン=ウルが微笑んだ。「あなたの恐怖も、理解も、全てが神の学習に寄与しています」

私は新たな決意を感じた。明日の判決で、私は神と人類の関係について、自分なりの答えを示そう。

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