第4章 神の最終弁明¶
第2節 全知の苦悩¶
Ωとの対話から一夜明け、私は法廷に向かった。今日は神の最終弁明の日だった。
法廷に入ると、雰囲気が昨日とは全く違っていた。傍聴席の人々の表情に、深い緊張と期待が読み取れた。
ラメク裁判官が開廷を宣言した。
「本日は、被告である神の最終弁明を聞きます。神よ、何か申し述べることがありますか?」
神の光が法廷の中央により強く輝いた。そして、神の声が響いた。
「はい、申し述べることがあります」
神の証言
「私は、自分の創造について弁明します」神が始めた。「しかし、その前に、一つのことを明確にしたいと思います」
法廷が静まり返った。
「私は完全ではありません」
この言葉に、法廷内がざわめいた。神が自分の不完全性を認めるとは、誰も予想していなかった。
「全知全能と言われていますが、それは『知ろうと思えば全てを知ることができ、行おうと思えば全てを行うことができる』という意味です。しかし、実際に全てを同時に知り、同時に行っているわけではありません」
私は昨夜のΩとの対話を思い出した。神は意図的に自分を制限している。
「では、なぜ制限しているのですか?」ラメク裁判官が尋ねた。
「成長のためです」神が答えた。「私もまた、成長する存在だからです」
神の成長
「人間を創造する前、私は孤独でした」神が続けた。「無限の知識を持ちながら、経験が乏しかったのです」
「経験?」アダムが質問した。
「愛することの喜び、失うことの悲しみ、希望と絶望、努力と挫折—これらは知識としては知っていましたが、体験したことがありませんでした」
私は理解した。神は経験を求めて人間を創造したのだ。
「人間を創造することで、私は初めて『愛する対象』を持ちました」神が説明した。「そして、愛する対象が苦しむ時、私も苦しむことを学びました」
法廷内の雰囲気が変わった。神を敵視していた人々の表情が、困惑に変わっていた。
「愛する者が自分から離れていく時の寂しさ、理解してもらえない時の孤独感—これらは、人間を創造して初めて体験した感情です」
全知の重荷
「しかし、神よ」ラメク裁判官が指摘した。「あなたは全知です。人間の苦痛を事前に知っていたはずです。それでも創造したのは、無責任ではありませんか?」
神の光が少し暗くなった。
「その通りです」神が認めた。「私は人間の苦痛を予見していました。戦争、病気、貧困、裏切り—全てを知っていました」
「では、なぜ創造したのですか?」誰かが叫んだ。
「苦痛だけでなく、喜びも予見していたからです」神が答えた。「そして、苦痛を通した成長の可能性も」
私は昨夜見た無数の可能性を思い出した。苦痛と喜びが複雑に絡み合った人間の体験を。
「しかし、私が最も苦悩したのは別の理由です」神が続けた。「私は全てを知っているがゆえに、人間を助けることができないのです」
介入の矛盾
「どういう意味ですか?」ラメク裁判官が尋ねた。
「もし私が直接介入して人間の苦痛を取り除けば、人間の成長は止まってしまいます」神が説明した。「困難を乗り越えることで得られる強さ、失敗から学ぶ知恵、苦痛を通して深まる愛—これらは全て、試練があってこそ生まれるものです」
私は自分の千の人生を振り返った。確かに、最も深い洞察は困難な状況から生まれていた。
「私は毎日、人間の苦痛を見ています」神の声に感情が込もった。「助けたいと思っています。しかし、助けることが本当の助けにならないことを知っています」
「それは言い訳ではありませんか?」アダムが挑戦的に言った。
「言い訳かもしれません」神が素直に認めた。「私にも分からないことがあります。いつ介入すべきで、いつ見守るべきか。その判断を常に誤る可能性があります」
この率直さに、法廷内が静まった。
神の学習
「実は、私は人間から学んでいます」神が告白した。「人間の選択、行動、成長—これらを観測することで、私はより良い創造者になろうとしています」
「私たちは実験動物なのですか?」誰かが叫んだ。
「実験動物ではありません」神が強く否定した。「共同創造者です」
「共同創造者?」
「人間の選択が、未来の創造を決定します」神が説明した。「私は可能性の枠組みを提供しますが、その中で何を創造するかは人間次第です」
私はΩとの対話で聞いた言葉を思い出した。
「人間の判断、選択、創造—これらが私の次の創造に影響を与えます」神が続けた。「つまり、人間は私の創造に参加しているのです」
愛の定義
「しかし、神よ」ラメク裁判官が質問した。「愛があるなら、なぜ悪を許可するのですか?」
神は長い沈黙の後、答えた。
「愛とは何だと思いますか?」神が逆に質問した。
「相手を大切にし、幸せにすることです」ラメク裁判官が答えた。
「それは愛の一面です」神が言った。「しかし、真の愛には別の側面もあります。相手の成長を願い、そのために時として厳しさも必要だと知ることです」
私は母親としての人生を思い出した。子供を愛するがゆえに、時として厳しくしなければならなかった場面を。
「私は人間を愛しています。だからこそ、人間の可能性を信じています」神が続けた。「困難を乗り越えて成長する可能性を」
「しかし、乗り越えられずに折れてしまう人もいます」アダムが指摘した。
「それは私の最大の苦悩です」神の声が震えた。「全ての人を救いたいと思いながら、救えない現実があります」
不完全な神の告白
「私は完全な愛を目指していますが、まだ到達していません」神が告白した。「人間と同様、私も成長の途上にあります」
この言葉に、法廷内の全員が息を呑んだ。
「不完全な私が創造した世界だからこそ、不完全さがあります」神が続けた。「しかし、不完全さの中にも美しさがあることを、私は人間から学びました」
私は心を動かされた。神もまた、悩み、苦悩し、成長しようとしている存在だった。
「私は人間に問いたいのです」神が最後に言った。「この不完全な創造を、それでも価値があると思ってくれるでしょうか?」
法廷が深い沈黙に包まれた。神の弁明は、誰もが予想していたものとは全く違っていた。
完全で威厳に満ちた神ではなく、苦悩し、成長し、愛に悩む存在としての神がそこにいた。
私は明日の自分の証言について考えた。この神を、どのように判断すべきなのか。