最終章 選ぶもの/選ばれるもの¶
第1節 再選択の時¶
判決から一週間が過ぎた。段階的自由拡大契約が締結され、私は再びΩライブラリに戻っていた。今度は、特別な目的のためだった。
「ユーリ」アイン=ウルが私を迎えた。「準備はできていますか?」
「はい」私が答えた。「しかし、本当にこんなことが可能なのですか?」
「可能です」彼女が頷いた。「契約の一環として、あなたには特別な権利が与えられました」
その権利とは、私の人生の分岐点に戻り、新しい選択をする権利だった。
再選択権の説明
「段階的自由拡大の第一段階として」アイン=ウルが説明した。「特定の個人に完全な再選択権が与えられます。あなたはその最初の対象者です」
私は戸惑った。「なぜ私なのですか?」
「あなたが千の可能性を観測し、選択の意味を最も深く理解しているからです」神の声が響いた。「あなたの再選択は、人類全体への指針となるでしょう」
私は書架を見回した。千冊の本—私の千の人生が並んでいる。
「どの人生を選び直すこともできるのですか?」
「そうです」アイン=ウルが答えた。「ただし、一度だけです。そして、選択した人生を最後まで生きる必要があります」
選択肢の検討
私は千の可能性を思い返した。
戦士として死んだ人生、母親として子を失った人生、犯罪者として罪を重ねた人生、聖職者として神を疑った人生—どれも完璧ではなかった。
しかし、その中で、一つだけ気になる人生があった。
「あの人生はどうなったのでしょうか」私が尋ねた。「私が物理学者として生きた世界で、自殺を考えていた時に別の選択をしていたら」
アイン=ウルは該当する本を取り出した。
「見てみましょう」
物理学者の未来
本を開くと、私は58歳の物理学者としての自分を見た。研究に行き詰まり、自殺を考えている。
しかし、この観測では、私は別の選択をしていた。
研究室を出て、近くの公園を歩く。そこで、一人の少女が泣いているのを見かける。
「どうしたの?」私が声をかける。
「迷子になっちゃった」少女が答える。
私は少女の手を取り、一緒に両親を探した。30分後、無事に両親と再会できた。
「ありがとうございました」両親が深々と頭を下げた。
「おじいさん、ありがとう」少女が笑顔で言った。
その瞬間、私の心に暖かいものが広がった。人を助ける喜び、感謝される喜び—研究では得られない感情だった。
翌日から、私は研究の合間にボランティア活動を始めた。孤独な高齢者の話し相手、子供たちへの科学教室—小さな善行を積み重ねていった。
そして、78歳で自然死を迎えた。最期の瞬間、私は満足していた。「意味のある人生だった」と。
完璧な人生の誘惑
私は本を閉じた。この人生は、他の人生よりもはるかに充実していた。
「この人生を選びたいと思いますか?」アイン=ウルが尋ねた。
「はい」私が答えかけて、止まった。
何かが引っかかっていた。
「アイン=ウル、この選択にも偏りがかかっているのですか?」
「いえ」彼女が答えた。「再選択権は完全に自由です。神の偏りは一切かかっていません」
私は考え込んだ。完全に自由な選択—それは同時に、完全な責任を意味していた。
他の可能性の検討
私は他の本も開いてみた。
戦士としての人生で、別の選択をしていた場合: 私は十字軍を離脱し、平和主義者として生きた。多くの人々に影響を与え、小さな平和運動を起こした。
母親としての人生で、別の選択をしていた場合: 長女の死後、私は医学を学び、同じ病気の子供たちを救う医師となった。多くの命を救った。
犯罪者としての人生で、別の選択をしていた場合: 私は改心し、元犯罪者として若者たちを犯罪から遠ざける活動を行った。数百人の若者を救った。
どの選択も、素晴らしい結果をもたらしていた。
選択の重み
「どの人生も素晴らしいですね」私がアイン=ウルに言った。
「そうです」彼女が答えた。「完全な自由が与えられれば、人間はより良い選択をする傾向があります」
「では、なぜ神は最初からこの自由を与えなかったのでしょうか?」
「試してみましょう」神の声が響いた。
突然、装置が起動し、画面にシミュレーション結果が表示された。
完全自由のシミュレーション
画面には、全人類に完全な再選択権を与えた場合のシミュレーション結果が表示されていた。
最初の100年間は素晴らしい結果だった。人々はより良い選択をし、世界は平和と繁栄に満ちていた。
しかし、200年後から異変が起きた。
完璧な人生を求めるあまり、人々は現実の不完全さに耐えられなくなった。些細な失敗でも、「やり直し」を求めるようになった。
300年後、現実世界は放棄され、人々は仮想的な再選択の世界に逃避するようになった。
500年後、人類は滅亡した。現実に向き合うことを放棄し、永遠に理想を追い求め続けた結果として。
「これが完全な自由の結末です」神が説明した。「完璧を求めるあまり、不完全な現実を受け入れられなくなるのです」
不完全さの価値
私は衝撃を受けた。完全な自由は、かえって人類を滅ぼすのか。
「ユーリ」アイン=ウルが言った。「あなたはどうしますか?素晴らしい人生を選び直しますか?」
私は長い間考えた。
物理学者として充実した人生、戦士として平和を築いた人生、母親として多くの命を救った人生—どれも魅力的だった。
しかし、私は気づいた。
「私は現在の人生を選びます」私が宣言した。
「現在の?」アイン=ウルが驚いた。「量子機構の分析官として、神の裁判に巻き込まれた人生を?」
「はい」私が答えた。「この不完全で、予想外で、困難な人生を」
現在の人生を選ぶ理由
「なぜですか?」神が尋ねた。
「この人生には、他の人生にない価値があるからです」私が説明した。「苦悩と発見、混乱と成長、不完全さと美しさ—これらが混在している人生だからです」
私は書架を見回した。
「千の可能性を見て、私は理解しました。完璧な人生は存在しません。そして、完璧でないからこそ、価値があるのです」
「完璧な人生を選ぶことは、現実からの逃避になってしまいます」私が続けた。「私は現実と向き合いたいのです」
新しい理解
「それに」私が付け加えた。「私のこの人生は、まだ終わっていません。これから何が起こるか分からない。その不確実性こそが、人生の醍醐味だと思います」
アイン=ウルが微笑んだ。「素晴らしい選択です」
「神よ」私が尋ねた。「私のこの選択は、正しかったのでしょうか?」
「正しいかどうかではありません」神が答えた。「あなたの選択です。そして、あなたの選択だからこそ、価値があるのです」
私は深い満足感を覚えた。再選択権を与えられながら、現在の人生を選んだ。この選択に、私は誇りを感じていた。
未来への道
「さあ、現実世界に戻りましょう」アイン=ウルが言った。「あなたの人生は、まだ続いています」
私はΩライブラリを後にした。これからも、不完全で不確実な現実を生きていく。
しかし、その不完全さこそが、人生の美しさなのだと今は理解している。