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プロローグ

夢の中で、私はいつも燃えている教会を見る。

炎は赤くない。それは白く、冷たく、まるで時間そのものが燃焼しているかのような光を放っている。崩れ落ちる十字架、溶けていく聖母像、そして祭壇の前に立つ幼い少女—それが七歳の私だ。

「神様は、どうして私たちを見捨てたの?」

幼い私の問いかけに、誰も答えない。ただ白い炎だけが、全てを飲み込んでいく。

目が覚めると、汗でシーツが濡れていた。部屋の時計は午前3時14分を示している。また同じ時刻だ。この悪夢を見るときは、いつも3時14分に目が覚める。円周率の最初の三桁—無理数の始まり、永遠に続く非循環小数の入り口。

私はベッドから起き上がり、窓辺に立った。2347年の東京は、もはや地上に高層建築物を持たない。代わりに、地下へと伸びる逆さまの都市が、地殻の奥深くまで広がっている。地表には緑が戻り、かつての摩天楼があった場所には巨大な採光口だけが残されている。

「ユーリ=セリグ、起床確認」

部屋のAIが私の覚醒を検知した。声は機械的だが、どこか気遣うような抑揚がある。汎地球量子機構が開発した第七世代感情エミュレーターの特徴だ。

「コーヒーを」と私は答える。「それと、昨日の解析データの続きを表示して」

壁一面がディスプレイに変わり、量子もつれ状態の確率分布が浮かび上がる。私の専門は量子情報理論—特に多世界解釈における情報の保存と伝達だ。かつて神学を学んだ者が量子物理学者になるのは珍しいことではない。神の存在を証明できなかった者たちは、しばしば宇宙の根本原理にその答えを求める。

データを眺めながらコーヒーを啜っていると、異常な通知音が響いた。

「優先度Ω(オメガ)の通信です」とAIが告げる。「発信元不明。暗号化レベル測定不能」

優先度Ω—理論上存在しないはずの通信レベル。私の手が震えた。

「開封を許可」

空中に文字が浮かび上がる。古代ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語、そして現代の量子記述言語が混在した奇妙な文面だった。しかし不思議なことに、私にはその全てが理解できた。

『親愛なるユーリ=セリグ博士

貴方は選ばれました。 全ての選択を記録する者として。 全ての分岐を観測する者として。 全ての可能性を理解する者として。

地下第14層、座標Ω-0-0にて、貴方をお待ちしています。

今から72時間以内に到着されない場合、この招聘は無効となり、 貴方の記憶からもこの通信は消去されます。

選択は貴方に委ねられています。 ただし、全ての選択は既に記録されていることをお忘れなく。

—Ω』

文字が消えた後も、その意味は脳裏に焼き付いていた。地下第14層—公式には存在しない階層。最深部の第13層よりもさらに下。そこに何があるというのか。

私は窓の外を見た。採光口から差し込む月光が、地下都市の深淵を照らしている。14層下には、光さえ届かない。

再びコーヒーカップを手に取ろうとして、気がついた。カップの中のコーヒーが、波紋一つ立てずに完全に静止している。まるで時間が止まったかのように。

いや、違う。よく見ると、液面には極めて微細な—量子レベルの振動が生じている。それは文字を描いていた。

『「選ばない」という選択も、また選択である』

私は深く息を吸った。七歳の時に失った信仰、量子物理学に求めた答え、そして今、目の前に現れた不可能な招聘状。全ては繋がっているのかもしれない。あるいは、これも量子的な偶然の一致に過ぎないのかもしれない。

だが、私の中で何かが動き始めていた。恐怖と好奇心、懐疑と期待が量子的に重ね合わさり、観測されるのを待っている。

シュレーディンガーの猫のように、私は今、行くことと行かないことの重ね合わせ状態にある。だが72時間後には、どちらかの状態に収束しなければならない。

窓の外で、東の空が白み始めていた。新しい一日の始まり—あるいは、全く異なる世界への扉が開く瞬間かもしれない。

私はもう一度、幼い頃の夢を思い出した。白い炎に包まれた教会。答えのない問い。そして今、その答えが地下14層で待っているのだとしたら?

決断の時が近づいていた。

次章へ続く